知らないってこわいこと 〜平和編〜
私の小学校は平和教育に力を入れていたようで、毎年6年生が広島に行く前に全校で千羽鶴をひたすら折って託し、6年生は「白い鳩」という歌を相当練習して広島の原爆の子の像の前で歌う。ガチで練習するから、その場に居合わせた方々はそのメロディーやハーモニーに涙する。
各授業での事前学習を経て、現地では小グループで被曝体験をした方々にインタビューし、帰ってきて原爆ドームの絵を描き、全校集会で学んだことをシェアするシリーズが続き…
そんな自分がアメリカの大学でアメリカ史の授業を受けたときはかなりショッキングで。
ちょうどそれは原爆投下の是非を議論する、という日で、
「明日の授業は、少しショックを受けることになるかもしれない」と、事前に気を利かせて教授がメールでお知らせをくれてたのはこのことか。
メールを読んでも、その時はあまりピンと来ていなくて、
「いや、そりゃアメリカ人だし、ある程度は原爆投下を正当化するだろうけど、とはいえ原爆よ?賛否の「賛」はまずないでしょ」
くらいの未熟な想定で臨んで、たまげた。
クラスはほぼ「賛」だった。もちろんどこぞの国のように、狂信的な「賛」ではなかったけど、「やむを得ない措置で、世界のリーダーとしてすべきことを行った」というのが総意だった印象。
悲しいとか残念とか、そういう感情ではなく、ただただ驚いたことをすごく覚えている。
目の前の人たちは、私が小学校の頃から聞いてきたことを一緒に聞いても、同じことが言えるのか。
私は、ここで生まれ育ったら同じことを言ってたのか。
いや、待てよ。そもそも私が育ってきた環境で正しいとされていることを主張することで、誰かを悲しませたり、何かを壊してしまったり、既にそれは起きてるのかもしれない…。
でも、あの日あの場所できのこ雲を見たあの人も、黒い雨で家族を失った人も、確かに存在していて、その人生は壮絶で、それって一体…。
そんな動揺で、意見を求められても何も言えなかったような、なんだか記憶が曖昧で。
今となっては、その動揺さえもその場でそのまま吐露する事で、それまでアメリカで生まれ育って知る機会のなかった反対側の歴史の続きに生まれたクラスメイトの話を聞くことになってただろうに、もったいないことしたな、と思う。
なんか、そんな話をメールで教授に送り、それがクラスで読まれたような記憶がうっすらある。いや、そこ大事。なんで覚えてないねん、ワタシ!
戦後75年。あの史上最悪の結末を実際に味わった罪のない方々も、いよいよお年を召されて、生の声もなかなか聞けなくなる一方。
「私」の話が、「私のお母さん」の話、はたまた「おばあちゃんの話」になった途端、そのダイナミクスは急に激減してしまう。
これから戦後80年、100年と時を経る中で、一番こわいのは何も知らないことであり、更にはその知ってることの裏側を追求しようとしない思考回路なのかもしれない。
やれ、イソジンがいいからと聞いただけで、一瞬にして店頭からイソジンが消えてネットで転売されるような国で、ほんまに自分も含め、大丈夫なんかしら。
※あの「白い鳩」。今も変わらず歌われているんだって。そして、ワタシも未だに歌える。
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